雑感(前)

2018年08月08日

雑感-思いつくままに、とりとめのない感想

今回のコラムは、この点をご留意頂きたい。
さて、夏の甲子園が記念の100回大会を迎えた。
この年に当たった球児たちは実に運がいい。
何せ、今大会に限り、実に最多56校が甲子園の土を踏める。
球児たちにとっての、夢の舞台。
夢舞台、、、。
うん。
今はきっとそれでいいのだと思う。
高校野球、高校サッカー。
それらの時期になると、色々と考えさせられることが多い。
それは年々、かわったりそうでなかったり。
自身の経験から言えば(高校サッカー)、その当時、選手権大会に出場することは夢であり、大きな目標でもあった。
結局、その目標は達成出来なかった。
準決勝、PK戦で敗退。
志半ばでその夢は絶たれた。
大きな絶望感。虚無感。
そんなものが自分自身の心の中を埋め尽くした。
最後の試合、ピッチに立てなかった悔しさは今でも忘れることは出来ない。
スポーツ選手の多くは、悔しさを糧にのちの成功へ繋げる。
果たして成功とはなんなのか?
小さい頃、小学生ぐらいの頃は、狭いコミュニティーの中で自分の実力を評価していた。
やがて中学生になり、もう少し広い世界に出て、大きな挫折を味わう。
悔しくて悔しくて、自分なりに努力をして、見返してやりたいと思っていた。
でも、自分自身その頃ぐらいからだったろうか、、、。
気付くことがあった。
【こんなに努力して頑張ってるのに、なんで自分は評価されないんだ、、、。】
周りはおかしい。
そうやって、現実から目を背け、他人のせいにしようとしていた。
きっと、こういう思いを抱いた人は多いのではないだろうか。
むしろ、今まさにそういう思いをしている人もいるのではないだろうか。
この考えは間違っていると気付く。

ちょうど、高校に上がるころ、高校サッカー選手権の国立競技場でプレーすることを夢みた。
桁外れの部員数。
ほとんどの選手は、3年間公式戦のユニホームをもらえないまま引退していく。
自信はなかった。
この頃、自分の考えは全く変わっていた。
それは今の自分自身のモットーにもなっている部分。
【自分の評価は他人がするもの】
ということ。
これはスポーツに限らず、あらゆるシーンでいえることでもある。
努力はその過程であり、その量を決めるのもやり方を決めるのも自分である。
どれだけ頑張っても、それを評価するのは他人である。
努力の過程がどんなものであれ、それを結果として評価することができるのは他人なのである。

そのことに気付いてから少しづつ、心の中がかわってきたのかもしれない。

-努力をするのは自分であり、それを結果として評価するのは他人である。-
実は最近この言葉を耳にしたものだから、こんな回想にふけってみた次第である。

結局、何が言いたいかというと、甲子園で目の前の勝負に全力を尽くす球児たちをみているとやはり清々しい気持ちになる。
努力は報われるものだと信じていたあの頃から、努力は過程であり、評価されるものではない。
と思うようになる。
今こうして、社会に出て、10年以上の時が流れ、様々な人たちと関わっていく中で、世の中には、意外と甲子園に出ている人だったり、高校選手権に出ている人だったり、インターハイに出てる人だったり、スポーツをプロでやっていた人たちだったり、、、。
結構いるものである。
自分があれほどまでに高い壁だと思っていてた壁を隣の人は乗り越えていたりするものである。
そう思うとあの時、自分が夢に描いた世界が凄く小さく見えてくる。
でも、それはその時その時を全力でぶつかってきたからこそ思えるものだったりもする。
目の前のことを全力で取り組めない者に未来はない。
そんなことを思いながら、100回目の夏の熱き物語を見届けたい。


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